善式|母子で生きる道

僕とオカンと僕とオカン

学校の先生は「喘息」を知らない

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小学生時の話だ。

それぞれの節目に学校行事として山登りがある学校は多いだろう。

私も5年生になって早々、どこかの山に登りに行った。

 

クラス替えがあり、4年生で同じクラスだった子以外は誰の名前も覚えていないような時期。

どこの山だったかなんて憶えていない。

 

生まれながらに喉・気管支・肺、とにかく呼吸器官が弱く、香川→福岡の引っ越し+環境変化のストレスで喘息を患った私は当たり前だが、すぐに息切れを起こした。

普通に歩いているのだけなのに息ができなくなったことにパニックになっている私を誰も助けてはくれなかった。

 

 

周りの生徒に助けてもらおうとは思わない。

みんな自分と同じように登っている。

 

でもせめて先生だけでも自分に目をかけてほしかった。

こう思うのは悪いことじゃないはずだ。

 

 

その辺の岩に座って、とにかく落ち着こうと必死に耐えている私に

「すわるな」

と言った。

「はやく行きなさい」

と言った。

 

私は

「息ができない」

と必死に訴えた。

 

先生は

「ただの息切れだ」

と言った。

 

 

ただの息切れってなんだ?

 

 

 

駅の階段を昇ったとき、ちょっと呼吸が乱れたりすると思う。

でも時間がたてば治まってくる。

 

つまり安静にしていれば運動による息切れは治まるのではないか。

さすがに小学生でもわかる。

だから座って休むという選択をしたのだ。

 

坂道や階段を登る時の息切れ

 健常な人でも山登りや激しい運動をすれば息切れを感じます。

坂道や階段を上るという動作は、運動している時と同様に、安静時より多くのエネルギーを必要とします。

エネルギーが増加すると、酸素需要も増加し、もっと息をするようにと体に命令するので、息が切れます。

呼吸をするための仕事量がふえている状態です。

一般社団法人 日本呼吸器学会HP - 呼吸器Q&Aより抜粋

 

しかし 先生は「予定どおりに生徒を学校に帰す」ことを優先 しているために、ひとり取り残されている状況を良しとしなかったわけだ。

 

だとしたら、途中の不慮の事態に対応できない先生なんか必要ない のではないか。

 

「はじめてのおつかい」みたいにスタート・ゴール地点に先生を配置して、班ごとに地図を渡して、行ってこい、でいいのではないか。

 

少なくともそういう形態の方が、先生に無駄に期待し無駄に絶望することがなくて済む。

子供だけの方が「少し休む」という選択肢を持てる ように思う。

 

 

 

中学生時の話だ。

私は入学してすぐ剣道部に入った。

なんのことはない。

かっこよかったからだ。

(当時アニメ「犬夜叉」にはまっていた)

 

運動部だから当然体力がいるが、幸いなことに普段外を走ったりすることはなく、とにかく武道場で打ち込みをする日々だった。

 

キツい・痛い・臭い、と3重苦の部活だがなんとかやっていけていた。

 

 

しかし夏休みに入ると突然グラウンドを走るというメニューが増えた。

もちろん途中でリタイアする。

肺が悲鳴をあげるから だ。

 

ただ、これを先生は理解してくれない

どれだけ体の中の気管支系統のすべてが焼けるような痛みを発していても、気絶するか絶命するかしないと分かってくれない

 

もちろん私は走りたくないから「ちょっと休憩させてくれ」と言っているわけじゃない。

呼吸が保てればいくらだって走ってやる。

 

しかし顧問の先生は他の走っている部員がグラウンド半周した地点で

「もうそろそろいいだろ、走りなさい」

と言った。

 

私の何を見て走れる状態だと認識したのだろうか。

いや何も見ていない。

もちろん走れるわけがない。

大暴れする気管支をそのままぶちまけてテメエを血まみれにしてやろうかと思った。

 

中二病の私でも分かった。

先生はただ「きちんと部活動をさせている教師であるという自分」を優先 しているから、集団と離れて休憩している私を良しとしなかったのだ。

 

先生自身が経験してきただろう部活動における 一致団結 とか 一蓮托生 から外れるやつを認識することができないのだ。

 

これも生徒だけだと

「自分も小児喘息だからキツさわかる。お前は重めの症状なんだな」

と私の存在を受け入れられることがある。

 

 

 

昨今「部活中に生徒が死亡」というニュースが多数見受けられる。

きっと昔からあったはずだ。

その大多数が普通では考えられない指導の結果であるように思う。

 

オカンの時代は水分補給はご法度、夏に外で走ってるときに頭上から水をぶっかけられるなんてザラだったようだし、

運動部は本当に脳筋(脳みそまで筋肉でできていると揶揄されるくらい頭が固い)の指導員しかいなかったらしい。

 

そういう指導を受けてきた先生は「そのキツさが普通」だと思い込み、同様の指導をする。

時代を経ても一向に良くならないのは「こういうところがキツかったが、じゃあ自分だったらどういう風に指導しようか」という考えに至らなかったから に他ならない。

 

 

部活動は顧問の先生にとってはボランティアだ。

ほとんどが無賃の残業である。

 

だがせめて、他人の子を預かって指導をする立場にいるのなら、試合の勝ち負けよりも安全性を重視してもらいたい。

 

試合の勝ち負けは生徒自身が考えて調べて進んでいけるものだ。

先生は「山の周辺地図」を渡すだけでいい。

不慮の事態とその予防策に力を注いでほしい。